2015年02月16日 (月) | Edit |
なんとなく、なんとなくなんですが、小早川隆景さんて、「貞節な夫=良き夫」のイメージで、女性人気がありそうなので、辺境過疎ブログとはいえ、「悪夫」と言っちゃうと、ファンのお気に障るであろうかと気にかかるのですが、茶請け話としてひとつ。

隆景ファンの女性にインタビューしたわけじゃないので、勝手な憶測になりますが、「隆景さんが女性に好かれる理由」は・・・

(1) 頭の出来が素朴な肉体派ではなく、知性と理性に満ちた雰囲気を有する。
(2) 生涯側室を迎えなかった貞操堅固っぷり。


さて、隆景さんの貞操堅固っぷりですが、Wikiでは奥さんと「仲睦まじかった」とされています。

正室である繁平の妹と隆景の間には子供はできなかったものの、この妻を非常に慈しみ、子ができなくとも側室を置くようなことはなかった。
Wiki「小早川隆景」より引用)
(但し、現時点ではこの一文は削除されています。)



二人の間に子はなかったが、隆景は側室を置かず、夫婦仲は睦まじいものであった。
Wiki「問田大方」より引用)



以前、隆景さんに関心を持ったことがあって、いろいろ調べたところ、「夫婦仲がよかった」と述べてあるサイトが少なからずありましたが、いまいち根拠が不明でした。
(小説もほぼ「夫婦仲良し」見解に基づいてますな。)

「仲がいい説」の根拠は、どうやら、「側室制度が認められている時代なのに、側室を置かなかった。しかも、正妻に子どもがないという、十分すぎるほどの大義名分もあるのに。妻を愛していたからに違いない!」とのお考えのように思えました。

大河ドラマは側室を持つことを浮気であり、悪であるかのように描いているけれど、当時は、お家の存続が大事な時代でありました。
また側室に迎えることで女の実家と縁を結ぶという政略上の意味も大きく、好色からなる汚らしいものではなかったと思います。

だから、「生涯側室を迎えなかった」のも、隆景さんの冷静な政治的な判断ゆえであったのではないかと。

わたしが小早川隆景を「悪夫」と思う理由。
それは、秀秋を養子に貰い受けたことです。

文禄3年(1594年)には豊臣家から秀吉の義理の甥・羽柴秀俊(小早川秀秋)を毛利本家の養子に迎える事を提案される。『芸侯三家志』によると40歳になる輝元には跡継ぎとなる実子が無く、そこで秀吉は秀俊を養子に送り込もうとした。しかし秀俊の器量や本家の血統を保持するため、秀吉に謁見して弟の穂井田元清の嫡子・毛利秀元を養子にする事を定めているとして養子入りを拒否し、自らの養子にしていた異母弟・秀包に別家を立てさせて秀俊を自らの養子に迎えた。
Wiki「小早川隆景」より引用)



毛利本家を救った美談のように語られることの多い秀秋養子縁組の顛末ですが、小早川家にとっては、とんだ災難では?
なんで、成り上がり(豊臣秀吉)の凡庸な甥を跡取りにせにゃならんのやと。

結句、隆景さんにとって大事なのは、毛利本家だったのだなぁと思わせてくれるエピソードです。

この件から類推すれば、結果的には羽柴秀秋の横入りを許しましたが、当初は毛利本家から養嗣子を迎える為に、側室を持ち、実子を儲ける事を避けたのではと思うのです。

奥さんは、鎌倉以来の名門、小早川家が事実上毛利に乗っ取られ、さらに毛利本家の犠牲となり、とうとう断絶したのをどう感じ、どう受け止めていたのでしょう。

「仲が良かった」でくくれる夫婦仲ではなかったと思えるんだけどな。

有名なエピソード、「妻に対する時も、肩衣・袴を着け、客人に対するように接していた」(黒田家家譜でしたっけ?)件など、初めて読んだ時は、「うわー、よそよそしーーー」と思いました。

対外的には、家付き娘の妻を尊重する姿勢を崩さず、一方で、毛利による小早川家乗っ取りを慎重に進めた男、そんなイメージです、わたしにとっての隆景さんは。



・・・「悪夫・小早川隆景」像を提唱しておいてなんですが、わたしも「生涯側室を迎えなかった」との一文には心トキメクところがありますw

しかるにリウィアは初代皇帝アウグストゥスにふさわしい、偉大なる貴婦人であった。

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