2017年01月09日 (月) | Edit |
一部再録有り。

◆韋后と中宗(その1)

二人の囚人が鉄格子の窓から外を眺めたとさ。
一人は泥を見た。一人は星を見た。
(フレデリック・ラングブリッジ「不滅の詩」)(※1)
(※1)「ジョジョの奇妙な冒険」新書判コミックス1巻からの引用



韋皇后
韋皇后(いこうごう、? - 唐隆元年6月20日(710年7月21日))は、唐の中宗の皇后。韋玄貞の娘。京兆万年(現在の陝西省西安)出身。しばしば韋后と呼ばれる。

神龍元年(705年)、武則天より譲位されて中宗が復位すると、武三思らと結託し、従兄の韋温とともに朝政を掌握した。景雲4年(710年)には自らの即位を意図し、娘の安楽公主とともに中宗を毒殺、温王李重茂(殤帝)を皇帝に擁立した。しかし間もなく李隆基(玄宗)が政変を起こし、その父である相王李旦(睿宗)が復位した。韋后は殺害され、その身分も庶人に落とされた。Wiki「韋皇后 (唐中宗)」



俗に言う「韋后の禍」(※2)を惹起した人物であり、「三面記事的悪女」といった役どころです。
失態続きの夫を見限った挙句、色と権力に溺れ、邪魔になった夫を殺しました。

(※2)武則天とともに「武韋の禍」と呼ばれていますが、原百代さんの「武則天」を読んだ身としては、いっしょくたにしたくないので、「韋后の禍」としました。



でも、立派なところもあるんです。

夫の中宗は最初に帝位から転がり落ちた後返り咲くまで、家族ともども、事実上の幽閉生活を送っていました。
元・皇帝とはいえ、いつなんどき、「賜死」の勅命がもたらされるかわからない、明日のみえない明け暮れに、中宗はすっかり弱気です。
そんな夫を気丈な妻の韋氏は支え続けました。

「禍福常なしと申すではありませんか。じっと我慢して過ごしておれば、そのうちにはまた良いこともありましょう。先のことは誰にもわからないものです。明日にでもご赦免が出ないとは限らぬでしょう。
(中略)
将来、必ず運が開けてくると信じてできるだけ晴れやかに過ごそうではありませんか」
(原百代「武則天」より引用)



あっぱれ、韋后!

たしかに先のことはわかりません。明日にもご赦免がくるかもしれません。
とはいえ、明日にも賜死の勅命がくるかもしれないと、毎日怯えて暮らす中宗のような人間が多数派でしょうに。
恐怖に流されることなく、自らの意志に由って、「ご赦免があることを信じて、晴れやかに過ごす」事を選んだ韋后に、わたしは、人間の持つ偉大な力、「選択する」力を感じます。

夫も妻の気丈さに感じ入り、「万一にも将来、運が開けたとしたら、みなそなたの励ましのおかげだから、望みをなんなりと聞き届けよう。恩はけっして忘れない」と約束しました。

復位の後、中宗は、「忘れぬ」と感謝した妻・韋氏への約束をたがえる事はありませんでした。
つらい幽閉時代を支えてくれ、また、苦労をかけた妻に報いるため、妻の望みをことごとく受け入れ、かなえてやりました。

なしてああなった、夫殺し(泣)。

◆韋后と中宗(その2)

「韋后の禍」の当事者であり、夫殺し・皇帝殺しでもある為、評判のよろしくない韋后ですが、一片の同情の余地はあるのでは、と思います。

「政治にはズブの素人」「世間知らずの中年女」と韋后に辛い原百代さんですが、それでも彼女の心情を次のように推し量っておられます。

皇后となってからの葦氏の凄まじくも愚かしい野望に狂った姿には、一人息子・重潤の死が濃く黒い影を落としているのではなかろうか。
(引用にあたって理解しやすいよう一部補足有)



韋后は一人息子を奪われました。
ほかならぬ、自分の夫であり、息子の父でもある中宗の命令によって。
中宗とても、好きこのんで我が子を死に追いやったのではありませんでしたが。

発端は重潤が、祖母・武則天の治世ついて悲憤慷慨の念を口にしたことでした。
悲憤慷慨といっても、妹や友人を相手にした、言ってみれば若者らしい潔癖さからくるその場限りの話であったのですが、密告によって「謀反の意志あり」とまで歪められました。
孫にもあたる重潤への武則天の処罰は陰湿極まるものでした。
父である中宗に、処分を一切任せたのですから。

中宗は苦しみました。
父の情としては我が子を死なせたくない。
けれど、ここで情に流されると、重潤以外の家族も全て「反逆者」として誅殺されてしまうかもしれない。
懊悩の末、中宗は、我が子重潤に死刑としての自殺を宣告したのでした。

原さんが指摘なさる通り、重潤の死が、後の韋后の夫殺しにも結び付いているのではないでしょうか。

理性では夫の判断を「是」としても、母としての情はまた別です。
息子を守ることもできず、生贄に差し出して保身を図った夫として、恨みの念が芽生えたのでは?

それに、韋后にとって息子は「ただ一人」重潤のみでしたが、中宗には四人の息子がいました。

「わたくしにとって重潤のかけがえはありませぬが、あなたにとって息子の代わりはまだ三人ありますわね。
身代わりがあると思えばこそ、重潤をお見捨てになるのですね。」
と、夫への不信が燻り、万斛の恨みとなって、夫殺しへと駆り立てたのではないでしょうか。

しかるにリウィアは初代皇帝アウグストゥスにふさわしい、偉大なる貴婦人であった。

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